理化学研究所は原爆開発基地だった【りか旅・駒込】

「東京に行く機会があるけれど、科学史を学べるスポットがないかなぁ。せっかくなら学びのあるお出かけにしたな。科学スポットについて教えてくれないかなぁ」

こういった悩みに応えます。

本記事では、東京・駒込にある科学史を学べる観光スポットとして「理化学研究所の発祥の地」を紹介しました。教科書で学んだことも体験を通すと価値ある知識になります。近代科学の原点でもあるこの理研発祥の地を楽しんでもられえたら良いかと思いました。

なお、僕は「りか旅」と銘打って理科をテーマに旅をしています。これまで6カ国、13都市を旅しました。研究者として生計を立てつつ、サイエンス・エバンジェリストとして科学技術を世間に伝えるための教育活動もしています。実際に足を運んで周った体験を基に記事を書いていますので、記事の信頼性が担保できるかと思います。

というわけでさっそく見ていきましょう。今回は知る人ぞ知るスポットですね。

駒込に誕生した理研

第一次大戦中の1917年に理化学研究所は駒込に誕生しました。アジアで最初の基礎科学研究所です。現在は文京グリーンコートとして生まれ変わっています。1967年に和光市へ本拠地が移転されるまで半世紀に渡り駒込の地で日本の科学技術を牽引しました。

理化学研究所の創設期

近年の日本の科学の中心です。「科学者の楽園」と呼ばれることもありますね。理化学研究所の創設期ごろに活躍した科学者たちをみてみましょう。

  • 池田菊苗(1864)…旨味(グルタミン酸ナトリウム)を発見した。
  • 長岡半太郎(1865)…理研三太郎の一人の物理学者。原子核発見以前に土星型原子モデルを提唱した。弟子に本多光太郎、石原純、寺田寅彦、仁科芳雄がいる。
  • 本多光太郎(1870)…KS鋼(1917)、新KS鋼(1934)を発明した。東北大学金属材料研究所を設立した。
  • 鈴木梅太郎(1874生まれ)…理研三太郎の一人。ビタミンB1を発見した。ビタミンB1の欠乏によって起きる脚気に対して、米ぬかが予防につながることを発見した。
  • 寺田寅彦(1878)…物理学者。長岡半太郎の弟子。夏目漱石の弟子でもある。
  • 中谷宇吉郎(1900)…物理学者。世界初の人工雪の開発に成功した(1936)。寺田の助手だった。
  • 仁科芳雄(1890)…ニールス・ボーアの弟子。日本の現代物理の父と呼ばれる。
  • 菊池正士(1902)…物理学者。電子線回折で世界的に知られた。
  • 嵯峨根遼吉(1905)…長岡半太郎の息子。仁科の下でサイクロトロンを建設した。
  • 朝永振一郎(1906)…ノーベル物理学賞受賞者。量子電磁気学でくりこみ理論の手法を発明した。
  • 湯川秀樹(1907)…日本初のノーベル賞受賞者。強い相互作用の媒介であるπ中間子を理論予想した(1935)。

どの科学者も日本最高レベルの発見や研究をしてきた科学者ですね。

近年は、113番元素ニホニウムの発見といった明るいニュースから、小保方STAP細胞事件などの暗いニュースまで、様々なかたちで世間を騒がせましたが、今も昔も日本の科学者が集まる研究所です。

理化学研究所の跡地(文京グリーンコート)

文京グリーンコート

都営三田線の千石駅徒歩5分、山手線の駒込駅から徒歩15分のところに文京グリーンコートがあります。跡地の一部には都立小石川高校もあります。

文京グリーンコートは、オフィスビル・高級マンション・商業施設がある複合施設です。レストランやカフェ、本屋さん、フィットネスクラブなどがあります。ドラマの舞台としても使われるような緑と近代施設が融合している場所でした。また、写真のように理化学研究所の歴史を伝える看板もありました。

当時の航空写真はこちらで見れます。

現存する旧23号館

現在、日本アイソトープ協会がある建物は、理研当時からの建物である旧23号館です。この日はお休みで中に入れませんでしたが、正門前から23号館を見ることができました。

年内に解体されてしまう旧37号館

理化学研究所 旧37号館です。左下に見える窓が、2階の仁科芳雄の執務室だそうです。

仁科記念財団があるのがこの旧37号館です。老朽化を理由に2020年内に解体される予定ですが、このとき(2020年2月)はまだ解体は始まっていませんでした。良かったです。

理化学研究所は原爆開発の研究基地だった

日本初の加速器はここにあった。

仁科芳雄が率いた日本初のサイクロトロン開発はこの理化学研究所で開発されました。戦後GHQによって東京湾へ沈められることになったことでも有名なサイクロトロンです。日本の現代物理の発展に貢献しましたが、戦争の煽りを大きく受けた装置です。原子爆弾開発の基礎データ収集にも使われたようです。

丁度、スポーツジムのプールや駐輪場あたりにサイクロトロンがあった

既に無くなっている建物

日本の原子爆弾開発である「二号研究」もこの理化学研究所内でおこなわれました。二号研究がおこなわれていたのは、今はなき旧43号館や旧49号館でした。しかし、アメリカ軍の空襲はこの理化学研究所も重要目標とされていました。旧49号館にはウラン濃縮のための重要装置である熱拡散分離筒がありましたが、空襲により建屋ごと全焼してしまいました。

最後に

文京区のこの地区は、昔ながらのお店もたくさん残っている哀愁漂う地区です。駒込駅までの道のりで、古いお店や六義園を通って「ここに当時の研究者たちもきたかなぁ」なんて想いを馳せました。

旧37号館は間も無く取り壊しとのことですので、ぜひ足を運んでみてください。